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ドーニャ・ピラール逝く Fallecimiento de la Doña Pilar Plá Pechovierto

 3月8日朝、シェリーのボデガ「エル・マエストロ・シエラEl Maestro Sierra」を担ってきたピラール・プラ・ペチョビエルトPilar Plá Pechovierto さんが、老衰のため、亡くなりました。99才でした。

ドーニャ (スペインで女性に対して使う尊称) ・ピラールに始めて会ったのは1990年代はじめです。インターネットなどなかった当時、日本ではシェリーの情報が十分得られないため、現地に行き、ボデガを訪問しては、いろいろお話を伺っていました。そんなとき、「小さいけれどいいボデガがあるから行ってみたら?」といわれて訪問したのが彼女のボデガでした。当時はまだアルマセニスタ(Almacenista:シェリーの熟成貯蔵をするが独自で商品化しないボデガ)でした。

プラサ・デ・シロス Plaza de Silosという小さな広場に面した真っ白な壁のボデガで、緑色の頑丈な木の扉を開けると、古い樽を包む独特のしっとりした香りが漂っていました。左手にある古色蒼然たる事務所の奥のオフィスに彼女はいました。がっちりした骨格の方ですが、とても暖かいまなざしが印象的です。

実は私は訪問先のオーナーが女性だとは知りませんでした。彼女も女性が訪ねて来るとは思っていなかったようです。30年前、アンダルシアの端っこのヘレスでは、まだボデガは男性主導の世界だったからです。これを機に、とても親しくしていただくようになりました。

19世紀半ば、大変優れた樽職人として知られていたホセ・アントニオ・シエラJosé Antonio Sierraが、ボデガのオーナーは上流階級の人に限られていた時代にもかかわらず、自分でもワインを造りたいという夢を実現し、現在のボデガでワインの熟成を始めました。子供のいなかった彼は姪にボデガを譲り、彼女から息子のアントニオ・ボレゴAntonio Borregoに継承されました。そして彼と結婚したのがドーニャ・ピラールです。

彼女は北部のアラゴン生まれ。結婚を機にヘレスにやってきました。1976年にご主人が亡くなった後、残されたボデガを守っていこうと決めたのでした。女性がボデガに入って仕事をするなんて信じられない時代で、彼女自身も関与したことはなかったため、まさにゼロからの出発でした。存在を認めてもらえるまで、それは大変な苦労があったそうです。

そんな母を見て育った娘のマリア・デル・カルメン・ボレゴ・プラMaría del Carmen Borrego Pláさんは、アメリカ史の権威で、セビーリャ大学で教鞭をとっていましたが、母の事業を引き継ぐことを決めました。そこに加わったのがリベラ・デル・ドゥエロ出身の醸造家、アナ・カベストレロAna Cabestreroさんです。これまでドーニャ・ピラールと事務の女性以外、ボデガの中はすべて男性が仕切っていましたが、これでカルメンの指揮のもと、女性がリーダーシップをとるボデガの体制が整いました。

ドーニャ・ピラールは「カルメンも子供がいないから養女をもらって後継者にするって、どうかしら?」と言っていた時期がありました。女性であることによる重圧に耐えて、努力の末に手にしたボデガは女性の手で守っていきたいという深い思い入れがあったのでしょう。

現在は「エル・マエストロ・シエラ」というブランド名で、独自のワインを出荷していますが、その前はルスタウのアルマセニスタ・シリーズから、ビウダ(未亡人)・デ・アントニオ・ボレゴ Viuda de Antonio Borregoとか、ピラール・プラ・ペチョビエルトという名を冠してワインが販売されていました。ちなみにマエストロ・シエラという名称は、創設者の名字のシエラと、樽造りの時に必要な道具である鋸(シエラ)使いの名手であったことをかけて作られています。

1993年、まだシェリーもスペインワインも日本では注目されなかった頃、OCS NEWSというマドリッドで発行されていたスペイン情報紙がワインのコラムを作って、私にスペインワインの記事連載の機会を与えてくれました。その初回に載せた記事がドーニャ・ピラールとそのボデガでした。

そんなこともあって、私にとって彼女は本当に思い出深い方です。これからも彼女の志を継ぐカルメンとアナを応援していきます。ご冥福をお祈り致します。D.E.P.

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